昭和49年09月10日 月次祭
先ほど幹三郎が前講を勤めておりました中に、今までの信心は例えば教祖の御教えの中にあります「御地内をみだりにけがすなよ」と御教え下さったら、その穢さないと言うことに、一生懸命取り組んできた、二十五年であったと思うと言っております。それを最近は、合楽示現活動に参画すると言う事に、明けても暮れても親先生が口を開けば、その事を言われるのは、どういうことであろうか。
今まで一生懸命二十五年間、ただ御教えを守ると「御地内をみだりにけがすな」と。例えば合楽に参ると思や、外で小便もまられんげなじゃねぇかと言った様な、その言う事を言う人があったと。例えば笑うてもです只訳は分からんけれども、御地内をみだりに穢すなよと仰るから、穢さんのだという純粋な信心です。素直にそれを守ってきた二十五年であったと。それを最近は合楽示現活動に参画すると言う事は、その穢さなかったのではない、是からはそこを清めて行こうという段階にあると言う事なのです。
良い事を言うなぁと私は思うて、聞かせてもらっとった確かにそうです。二十五年間ただひたすらにです人が、笑うても悪う言われても、只いうなら黙々と沈黙を守ってきた。これは私はそれこそ最近合楽で奇跡の連続と言う事が言われますけれども。宗教関係においてですお導きをするという事。教祖様もそれを仰っておられます。我が身におかげを受けて、起きて来た事を、人に実意丁寧に話をしていくのが神への御礼だと。いうならば、お導きをすると言う事をです。
様が喜んで下さる事として、人に伝えていくいうならば宣伝していく。と言う様な事はもう私共もそれ、そう習ってきたしそれを、言うてくると言う事の方が本当です。所が合楽は二十五年間それを言うてこなかった。只これが合楽の一つの御流儀になるのかも知れんと、私は思うておった。確かにそうなるだろうと思うておった。どんなに高い山に出会ってもです。甘いものがそこにあるならばです、それにどういう遠い所からでも蟻がこれを、甘い物にたかって来る慕うて来るようにです。
必ずそういうおかげを受けられるのだというのが、持論でもあり私の確信でもあったのですけれども。最近はそれがね今までは穢さないという生き方。いうならば守るという事を、一生懸命守ってきた。そして今度は守る事から攻める事へ入っていった。それが現在の合楽の信心の状態ではないかと言う訳です。難しい事を言っておりましたですね。自分の日常生活そのものがです、神様の願いであらなければならない。
そこの所の充実が出来なければ、示現活動は出来ないと思うという意味の事を言っておりましたです確かにそうです。まず我が身におかげを受けて、自分が頂いておる御用そのものがです、神様の願いと同じにならなければいけないと言うんですよ。お商売をさせて頂いておろうが、お百姓をさせて頂いておろうがです。それは神様の願いが、そういう日々の御用になっておらなければ、本当の意味においての合楽示現活動は出来ないと僕は思いますというような事を言っておりましたですね。
私はまさしくそうだと思います。いうならば二十五年間の間に、そこが段々出来る様になってきた。そして信心のいうならば喜びの世界、有り難い世界。貧乏のない世界争いのない世界、病気のない世界そういう世界が、自分の心の中に自分の家庭の中に現れておる事実を、再認識させて頂いて改めて、まぁおかげを頂いてきたものだと気が付いてきておるのが、今の合楽の御信者さんの姿ではなかろうかと思う。
おかげを頂いてきておったけれども、まだおかげの頂き足らんごと思うておった、そこにです、おかげを受けておるではないか。まず健康ではないか。第一あんたん所の家庭には、もう薬箱が無くなっておるじゃないか。成程その日暮らしではるけれども、それになくて困ると言う事はないじゃないか、どことはなしにお繰り合わせを願い、お取次ぎを頂いて、おかげを頂いて来ておるじゃないか。必要であるならば、必要なだけは、おかげを受けておるではないか。
成程もう明日食べるものはないかも知れないけれども、もう確実に明日食べる事、食べさせて頂けれる事は、確信ができるほどしに、バタバタせんでもおかげが頂かれる所まで、おかげを頂いておるではないか。それをまだ沢山の預金がなからなければ、お米も俵をこう積んでおらなきゃいけん、家も他所にはまだ金銀玉露の様なお家があると、他所ばかりを眺めておるから。
頂いておるおかげに対して、おかげをおかげと気付かなかったというのが、一生懸命勢々と働かせて頂いて、働けど働けどわが暮らし楽にならざりと言った様な考え方が、多分に心の中にあった。楽にこそならないだろうけれども、自分の思いをかけると、おかげを頂いておったという、楽どころではない、これが本当の意味においての極楽であろうと。いうならば、極楽の確認を迫られておるわけです。
いや私は極楽に行っとらんち言う事はなか。もう合楽に一年もお参りしておるなら。あんたはもう極楽に行ってるじゃないかと。成程家には家内がまだ参りません。主人が参りません。けれども、家内がそうだろうけれども、あんたの心の中にはどういう中にあっても、有り難いというものを教え叩き込まれて来ておるじゃないかと。あんただけでも極楽じゃないか。あんたの家族だけでも、そういうおかげを頂いておるではないか。
今日は上野先生が、先ほどお届けしてましたがね。最近私が御霊様の世界、合楽に御神縁を頂いておる全ての御霊様に極楽宣言をさせて頂いた。この頃私共の御霊様の御祭りを機会に、合楽理念を頂いておる御霊様達。ところがです自分が極楽に行っておるとは、一つも思っていない。いうなら甘菜辛菜も、それこそ十分に頂いておるけれども、是は飲んじゃならんものば飲んどるとじゃなかじゃろうかと思うて、こっそり隠れて飲みよるような気兼ねしながら、極楽におると言う様な感じなんです。
芸者の皆さんと一つも変わらんおかげを頂いておって、頂いておる自覚がないと言う事です。まだまだそうでしょう。今日御霊様今日ある御信者さんのお家のお母さんとが、親戚の方を知っておるのだそうですけれども。その方達が出てこられてですね、まあ分かりやすく言うならば、おかげで合楽で合楽示現活動が行われておるおかげでです。自分達もこの様におかげを頂いておるが、その人は分家ですまたあんたの所の里の御霊様。
それからその家の御霊様の御霊祭りを今度、神様を奉斎する事になってる、そのお家は。立派にご普請が出来ておる。所が御霊様が御祭りしていない。だからその前にです。はっきりと改式のおかげを頂いて、御霊様の御祭りをしてくれ。あなたから頼んでくれないかというようなお知らせを頂いておるです。御霊様の中にもそういう示現活動の、そういう働きが現れておると言うことです。
今日まぁ例えて、午後の奉仕の二三時間の間に、私がお取次ぎをさせて頂いた二、三の事を申してみましょう。先日大体福岡の教会の御信者さんであった。久留米へ見えて今東町教会におかげを頂いておる。たまたま先日合楽の久留米支部の共励会がございました。月に二回、佐田さんのお宅である。その八日の共励会におかげを頂いて、初めて合楽示現活動と言う事について頂いて感動致しましたと言っておる。
どうぞま次にあるそうですから、その時にはお繰り合わせを頂きたい。先日からいわゆる教会長先生、東町の先生がお話の中に、合楽で先月から頂いてきた、おかげの泉をです、近所に井上さんがおられますから、井上さんがあそこの先生に差し上げておられた。テープも持って行って聞いて下さいと持って行かれた。それを頂いた感動した話をなさいましたが、先生ならずとも私共一信者でもです。
あの合楽示現活動と言う事には感動いたしましたと。所が私の方には主人が、今晩も御月次祭と言う事ですからお参りをしたいけれども、主人が信心がない。いや信心がないだけなら良いけれども、お参りに反対をする。ご本部にも参りたいけれども、お参りが出来ない。どうぞお参りが出来る様に、また合楽の久留米支部の近くですから、久留米支部の共励会にも、是非またおかげが頂きたいというので御座いました。
それで私はね先ず一つご主人に、合楽示現活動をしなければなりません。丁度福岡の戎浦さんのお母さんが、今宮崎の方におられます。それこそたどたどしい、手紙ではありますけれどももう七十幾つのお婆さんですから、本当にたどたどしいお便りですけれども、真心一杯。もう最近は宮崎延岡のほうで、ちょっとした合楽ブームを感じます。どこに行っても合楽のお話。それを泊まりがけで教会を回って歩かれた。どこどこの教会の先生も、今度是非お参りをしたいと思う。
家の教会にも今、こげんして助からんとがおるから、一つお願いをしてくれないかという様なお願いもある。とうとう一日で回りきれなかったから、御信者友達のお家に泊まらせて頂いて、また、そこでも一晩中、合楽のお話をさせて頂いて、まぁ月に一回か二回しかお参りが出来ませんので、あのおかげの泉を、繰り返し繰り返し、少ないところは輪読させてもらう、また、病人さんのところにはそれを持っていってあげて、十回も十五回もあれを読み返させて頂いておかげを頂いておる。
毎日決まったように熱が出る、毎日決まった時に痛みがあるのが、全然痛まなくなった、または熱が出なくなった。お医者さんか言われる。そげなはずはなかち言うちから、言わっしゃった。そげな事なかち言うたっちゃ、ほんな事熱が出らんならしょうがなかじゃんのち言うちから言うたち言う様な事が書いてあります。お医者さんちゃ妙な人ですよ、もう何日しか死なんち言うでしょう。そすと死なんと腹かかっしゃる。俺が言うたつが、やっぱ、権威に関わるわけでしょうね。
やっぱ見立てが間違うとらんじゃったち、言うことになるのじゃないでしょうか。そう言う様なね、話をさせて頂いた。そしたら次々とお参りのあるのが、それぞれの体験をもった、奇跡的なおかげを受けた、方達ばかりでしたから、その方達をそこにおいてから、お話をさせて頂いた。篳篥のここで楽の御用を頂いております東さんという方のお母さんが、今日昼参ってきて福岡です。あの辺の所に座っておった。お取次ぎがここ二三人ズラッとつかえておった。
私がテープを聞いておる人もある。所があそこにおられたお母さんが、スルスルここへ来られてから大体大変耳が遠いからね補聴器をはめておられるんです。所が先生あなたが、ここからお話になっておるのがね、あそこへ座っとって今日は聞こえますち言うんです。そんならあんたが補聴器を取らじゃこてち言うたら、取ったらまた聞こえごとなりはせんじゃろうかち言うごたる、取ってみなさいと言うて取らせた事でた。いうならばこういう風にです、お話しを頂き頂きおかげを頂く人が、この頃続いておる。
丁度杷木の市川さん、信徒会長の杷木教会の。丁度御取次ぎを頂いて、そこでテープを聞いておった。今日は私が胃癌でおかげを頂いて、愈々医者に掛って手術をすると言う事に決まったけれども、帰りもそれこそしぶしぶとして、ここへ寄られたのが初めてだった。そん時に親先生から手術をせんでも、病院に行かんでもおかげになるという意味の御理解を頂いて腹を決めた。
その時と同じ症状の、やっぱり総代さんが、杷木の教会におられた、同じ程度の症状。一人は入院をした、おかげで手術は無事に済んだけれども、一年後には亡くなられたというのです。私は親先生今日が丁度4年半目になります。今日は矢も盾もたまらずに、そのことのお礼を申し上げたいと思うて、様々な工夫をさせて頂いて、今日のお礼参拝でございますと言われる。
だからその話しをしたのです。「今あそこで聞いておる人が、そう言う様な、いうならば、私の言う通りの事を聞いて、おかげを頂いて4年半、生き延びのおかげを頂いておる人なのですよ。ちょうどそげん話しよる時に、合楽食堂の息子さんが、子供さん連れて、ブラブラとお参りして来た。今そこに参ってきておる、合楽食堂の中村さんと言うのですけれどもね、あちらのお婆ちゃんは乳癌でした。
もう死ぬか生きるかとにかくお医者さんが、もう八十にもなる事だからけれども手術の手より他にないから、手術をするというのでお年寄りが、それこそ手術をするのが大変に嫌われる。それで私が申しました「そげん手術をしゅうごつないと言うなら、連れて帰ってきなさい」て私が申しました。それでねそれこそ逃げて帰ってきたんです。
そしてそれから、勿論一生懸命に当時の椛目でしたが、お縋りさせて頂いていわゆる乳癌という命取りの病気から全快のおかげを頂いて、もう二三ヶ月後には畑に出て鍬取りするぐらいにおかげを頂いておる。同時にねとにかく今の示現活動の凄まじい話をさせて頂いた。いや実はそれをこの頃、久留米の佐田さんのところでも聞かせて頂きましたが、あちらの佐田の若奥さんのお話を聞かせて頂いて、神様のお働きといい信者さん方の一生懸命の取り組みといい、もうただただ、恐れ入ってしもうたというのです。
だから本気で自分の主人を、示現活動にさせてもらわなければいけない。示現と言う事は神仏、神や仏が不思議な働きを示し現す事だと。そういう尊い御用にそういう働きに私共が賛同する。参画させてもらうと言う事はそういう神様のご計画に、預からせて頂くという事だ。預からせて貰わにゃいけんのですよ。次に私は戎裏さんの話しをさせて貰った。あちらが、みんな信心なさいますけれども、ご主人だけが信心がない。
今晩も参っておられます。福岡から参って来なさる。所が此の頃三十日にマルショウを中心にした合楽祭りが、そこの広場でございました。まぁ参ったり拝うだるとはあんまり好かんならあげなつをを見るだけでも、いっちょと言うのじゃなかったでしょうか。家族中で出てきておられました。そしてその翌日お参りをしてきてお広前でほんのちょっとではあるけれども、私と会ってちょっとではあるけれどもお話を頂いてそして。
そしてあの雰囲気の中に浸らせて頂いて、ご主人が帰ってこういう事を言われた。もし僕に今、生活がかかっていないなら、私は暫く合楽の教会で修行がしたいと仰ったげな。そういうものが、今の合楽には滾っておるのです、そういうものが。だから助かるのです。それからまた何回かお参りになりました。初めて家内やら親達、子供達が参るけれども、それを心好しとしなかった主人がたまたま、そういう催しの事の時であったけれども、お参りをさせて頂いて、そしてお広前に額ずかせて貰う。
先生とちょっと会わせて貰う、一口のお話も頂かせて頂いただけでです。もし私に生活がかかっていないならば、私は暫く合楽で修行がしたいと言われたと言うのである。それから、また何回かお参りになりました。これはもう本当のお参りです。そういう働きがあっておる時ですから、あなたのご主人だってです、一緒にお参りが出来る様になりますよと言うて、お話しをしたことです。
昨日、手紙がまいりました。福岡の西新教会の総代をしておられる方が、大変おかげを頂いた。そのお礼の手紙と同時に、あまりのおかげを、有り難さをです、この有り難いものを、福岡の進藤市長に話そうと決心された。久留米の近見市長のお話を聞かせてもろうて、久留米市の為に、久留米の市長さんは御信心をなさっておられます。あなたも福岡市民のために、どうでも一遍、合楽にお参りをして下さい、このご本を読んでくださいと言うて、おかげの泉を売ってこられた。
大変喜ばれたんです。ほんなことのぅ福岡の行事は雨降り行事。まぁどんたくなんかの時に五日あるならば、二日間な必ず雨が降ると言われるくらい。本当に合楽にお参りをして、近見市長じゃないけれども、そういう様なおかげを頂いたら有り難いことだろうから、是非、私もおかげを頂きたいという風には、言わっしゃれんじゃったばってんか、まぁ心動いたようだったと言うわけです。いや、なかなか金光教的な言葉で、誰でん、そげん言いやきらんですよ。
どうしたっちゃおかげ頂いたおかげ頂いたじゃ分からん。訳の分からんおかげを頂いたっちゃいかん。もう本当に頂いて、おかげを頂いたでなからなければね。その方から、昨日、手紙が来たんです。それはね、こうなんです。今の松下電器ですかの、松下幸之助さんですかね、社長が。に、手紙を出します。その複写のほうですから、複写のほうをこちらに送って、こういう文面で、こういう風に出させて、まぁそれを、かいつまんで言うとです。私にも二人の息子がおります。
あなたの現されたご本を読んで、大変感銘いたしたましたというのです。最近ベストセラーになっておる本があるそうですね。松下さんの書かれた本です。立身成功談でしょうか。成功の秘訣でしょうか。または色々な人生の味のある御話しが、一杯載っておるのじゃないでしょうか。それで本当に二人の息子にも読ませた、私も読んで感動しましたがです。実は久留米に合楽というところがありまして、合楽のそもそもの時分から現在、皆さんおかげ受けておる事から、合楽示現活動のことからを細々と書かれた。
あの、ご本の中から感じる、有り難いものの上に、もう一つ合楽の信心が添えられたらば、鬼に金棒だろうと思うという意味のことが書いてある。是非、あなたも合楽にご参拝のおかげを頂いてくださいと言われる。天下の松下さんですよね。松下幸之助さんと言や。いわば、合楽の示現活動ということがです、私共が一生懸命ならば、神様も一生懸命でおありになる印が、そこに感じられるのじゃないですか。
昨日は、土居の久富さん所の、年に一回の謝恩祭でございました。そのお迎えに、久富建設の正義先生が迎えに来て下さいました。自動車の中でです、こういう話をされます。いわゆる合楽示現活動に参画しておる。そこに、お話のチャンスがあればお話をする。ところが、どういうことからか、向こうの方から示現活動された。「私は金光様の信心をする者だ」何か、銀行関係の大変偉い方だそうです。元田川におられた。
現在花畑教会にお参りをしておる。いつも鞄の中には「金に好かれる話」というご本が入れてある。高橋正雄先生が現されたところのご本なんです。銀行関係ですから、金の足らんとどんが集まってくるのでしょう。そしたらこの本を読みなさいと。その中には金光教のことが書いてある。また金に好かれる話が書いてある。なかなか親切な方だと思う。本部の中央の色んな役もなさっておられるという事だそうです。それから、正義先生も、こうして合楽におかげを頂いておる話しになって、まぁ信心話。
先日、近見市長に、先日じゃない、この正月です。名刺交換会があるから、参りました。丁度私は教会の元旦祭を頂いてから行きましたから遅くなりました。そしたら、すかさず、市長さんから「あんたどうして遅かったか」とこう言われた、「実はこうやって教会の今日は元旦祭だから、そちらの方を先にして来よったけん、遅くなった」と言うたら、あら、あんたも金光様の信心をするかと。
私も合楽にお参りをさせて頂いておると、近見市長が言われたげなが、やっぱそうですかと言う話じゃった。私は、それを聞きながら、自動車の中で、途端に嬉しゅうなった。成るほど、私は勇気があるです。特にインテリであるとか、今日も何と言うですか、県会議員の原口さんの奥さんがお参りになった。「だからどうでも一つ、あなたじゃいかん、原口さん自身が、一遍、お参りにならなければいけません」と言うて、お話をしたことですけれどもね。
信心を頂いておるなどという様な事を言うと、その何か、低級視されるような感じが、可笑しいという様な観念が、日本人の全ての中にあるのです。だから、このように、狂うてきて間違うたんです。しかも、市長さんという職に在りながらです。金光様の御信心を頂いておると言う事を、堂々とそこに言われると言う事は偉いと思った。私も合楽にお参りをさせて頂いておると言う事です。
捉われたり気がねをしたり、そしてそこに、信心をするとかしないとか、参るとか参らなかった事を、隠さなければ成らない様な事ではおかげにならん。最近宮野教会の御信者さん方が熱心にお参りになる。銘々が教会の事を、先生親先生若先生のことを一生懸命願われる。感心されるばかりである。今晩は今晩の月次祭に、若先生も同道でお参りになっておられます。私はね今朝から全教一新全教一家と言う事についてです。大きな意味においての全教一新、全教一家を聞いて頂いた。
祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん、という御教えはです。私共がお神様にお願いする事も忘れて薬を飲んだり、注射をしたりしてそして、あら忘れておったと言う位の事じゃいかんと。本当いうたら薬は毒だ注射は毒なんだ。その毒を変じて薬にして頂くおかげを願わにゃいけんのだ。その証拠に畦黒に虫は出来んけれども、薬を撒く所には、その薬では利かん虫がまた出来るじゃないかと。
あれは薬が毒の証拠なんだ。けれども私共が、さぁ愈々痛か時には、毒にある所のモルヒネでも打たなければ出来ん様な場合があるけれどもです。祈っておかげを頂けよと言うことなのです。本当は薬は要らんのだけれども、祈りだけでも良いのだけれども。祈るだけでは間に合わないのが、今の世界中の状態ではなかろうかと、私は思うのです。半死半生、いやもう何日後には死ぬると言われる様な
人が、今合楽で助かっておるというのですから。現在の地球の状態と言うものは、私が頂く所によると、死相が現われておると神様が仰るです。いうならば現在の地球上に現われておる症状というのは、末期症状なのだと言う事です。それを救い得るものは、真の信心をさせて頂いておる者が力を合わせて、全教一新して全教一家。例えばお釈迦様でも、キリスト様でも、その御時代には確かに奇跡を現すほどしの生きた働きはあったのだけれども、今は、ただ、教えが残っておるというだけである。
そういう方達でもです。全教一新してという事はそういう教祖の時代に立ち返らせて貰うて、生き生きとした働きの出来れる宗教に、御互いがして行こうではないか。金光教もなからなければキリスト教もない。いうならば人の難儀が救い助けられるほどしの教えを持ち、力を持っておる宗教がです。愈々打って一丸になって、世界の難儀に立ち向かわなければならない、もう時期が時期なのだ神様のほうが、いうなら慌てておられるような状態だ。だからこそ今合楽ではです。
例え疑うても半信半疑でもです。今まで、信じなさい信じなければおかげを受けられんと言う事でしたでしょう。所が信じなくても縋る心があれば奇跡を見せるというのが、合楽のここ二ヶ月あまりの、毎日お広前に現れておる所の奇跡の続出であります。是はいうならば(?)だけの事ですから、それを頂いて神を信ずる人達が、本気でです神を信じて疑わない人達が、確信を持ってです。しかも一人よりも十人で一人で持ち上がらない石でも、大勢で大声を掛けて持ち上げれば、持ち上がる道理と仰る。
そういう道理に立って、全国のですいや全世界のです、宗教人の全てが世界の難儀に取り組ませて頂く。もう死相が見える程しの状態の中からです、ここにもう一回お生かしのおかげを頂かせて貰える様な願いをさせて貰わなければならない時なんだという訳なんです。今朝から私ご神前で「世界を清める」という御教えを頂いた。汚れに汚れ壊されに壊されてきた。教祖様もその事をです、世の中が開けてきたというけれども、開けるのではない、めげるのじゃと仰った。
もうめげにもめげて、もう時間の問題だと。今日誰かがここに何とかという予言者の本を、そこに上げておりますもん。それを見ると地球は二十五年後には破滅すると書いてあるそうですが。これが誰が持ってきたじゃろうかと思いよったら、何か末永先生が、誰かから貰うたからと言うてそこに、私に読めと言う事でしょう持ってきてました。そういう予言者の言葉ではなくても、宗教者がです。釈迦もキリストもやっぱり、末世の時を言っておられるし、最後の審判があることを言っておるし。
しかもそれは、黙示録という六千年前に書かれた本で、その六千年後が、今日に当たっておるのだと言うのです。神様の一年は、私共が千年を数えるのが一年だという事ですから。いうならば、どういうことですか、五千九百七十五年過ぎておると言うのですから、あと二十五年なんかちゃ、神様の目からご覧になると瞬く間なんです。ですから神様がです、本当に奇跡でも、信心は足らなくても、疑うても願うからには、奇跡を見せて、神を信ずる生活に入らせて貰いたい。
そして神を信ずる確信を持っておる者達が、手を取り合うて、世界の難儀、世界の破滅を防ごうと言うような人間氏子、いうならば、キリストの言葉を借りるとです、生き残りの人々たちを、一人でも多く生き残らせようとする神の働きを、今合楽のお広前に感じん訳にはまいりません。そこでです私は今日世界を清めると言う事は、どう言う様な在り方にならせて頂いたら、世界を清める事になるのだろうかと言う事をお伺いしたら、鹿児島の教会長であるところの、行徳清人先生を頂きました。
行徳とは行う、御神徳の徳。清人とは清まる人と書いてある。ははぁ只今申しますように、神を信じて疑わない、神様のあることを知っておる人間がです。お徳を頂いて、力を受けて、神を信ずる力を持ってです。そういう人達が清めていく以外には無いのだと言うことです。そんなら、どうして清めていくかと言う事はです、神様が一番求めておられるもの、神様が願いとしておるもの。
いうならば、神様が一番喜んで下さる御信心。それは今一人でも多くの人間氏子が、この世に生き残れる合楽示現活動に参画させて頂くという事より他ではないという事なんです。合楽示現活動ということがです。神も助かり氏子も立ち行くところのおかげの意味です合楽。神と人間とが楽をし合う。天と地が一つになって喜び合う時。鶴亀が舞い遊ぶようなおかげと、神様は仰っておられるです。
神様と人間が一緒になって世界の難儀に立ち向かう時にです。それこそ鶴亀が舞い遊ぶようなおかげを、神様の理想そういう実現を願っておられるのです。だから、そういう運動に、そういう働きにです、私共が参画させて頂くと言う事が、取りも直さず神様が一番喜んで下さる事であると同時にです。
愈々汚れに汚れた地球を清めて行くと言う事になるのだと思うのでございます。どうぞ一つ本気で、合楽示現活動に参画のおかげを頂かせて下さいという、切実な祈りを持たせて頂かなければなりません。それには幹三郎が申しておりましたように、私が今頂いておる御用そのものが、神様の御用だと確信出来れる御用で無からなければいけないと言うのです。そこから溢れるものが示現活動になって現われてくるというのです。
どうぞ。